まわりまわって

この前、『プロレタリア芸術教程 第2輯』(世界社、1929年)という本を入手しました。
小林多喜二が〈文学大衆化〉について書いていたりと、けっこうおもしろいものなのですが、これを買った人は、全部読んでいないようなのです。フランス装というと大げさですが、ページがくっついているところが、あったのです。槙本楠郎さんの児童文学に関する論考の部分だったのですが、その人にとっては、関心がなかったのでしょう。岡本唐貴(白土三平の父親ですね)さんの美術論のところにだけ傍線がひっぱってあって、そこが大切だったのでしょう。
考えてみれば、本というものは、最終的には、自分を通過していくものです。そう考えると、線を引いたりしないことはもちろん、カバーや帯なども、きちんとしておくのが礼儀なのではないかとも考えます。ずっと前、岩崎書店から出た、『宮本百合子』(1951年)という追悼集を入手したときも、カバーもなにもなく、裸の状態だったのです。カバーも帯も存在したと知ったのは、けっこう後で、なおかつ、入手したときの半額近い値段で店頭に出ていたときには、なんだか損をしたような感じもしました。
本の書き込みが話題になったといえば、数学の分野で、なにか有名な話があるそうですし、昔の写本には、識語がついているのが普通だったわけで、そういうこともあるのでしょうが、現代の活字の時代には、それにふさわしいマナーも確立させることも大事なのかもしれません。