独自性

津田左右吉歴史論集』(岩波文庫、2006年、文庫オリジナル編集)です。
津田左右吉といえば、高校時代、(前にも書いたかもしれませんが)神保町の岩波の店が、まだ2フロアあって、その1階がすべて岩波文庫だったころ、ある日、そこに行くと、同じ高校の同学年で、自他共に(少なくとも周囲は確実に)学年トップだと認める男が来ていたのです。私は津田の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』を手にしていたのですが、彼が手にしていたのは、『特命全権大使 米欧回覧実記』だったのです。
その差が二人をわけたとはいいませんが、彼は当然のごとく、ストレートで東大文科一類に合格し、法学部に進み、大蔵省(当時)にはいり、けっこう出世しているらしいのです。
だからといって、津田の本について悪口をいうのではありませんが、あまりに日本文学における、漢文作品を軽んじる津田の態度にすこしなじめなくて、最初はきちんと買っていたのですが、だんだん間があいて、最終第8巻を買ったのは、3年ぐらいたってからでした。
この「歴史論集」も、その点では、やはり似ていて、とくに日中戦争の頃に、そうした日本と中国との違いを強調するような書き方には、やはり違和感を感じます。
中国との違いをことさらにいわなければ日本の独自性を表明できないというのは、本居宣長の時代もそうだったわけで、だからこそ、日本における漢文の位置は、きちんと把握されなければならないのでしょう。
江戸時代の黄表紙で、正確な書名は忘れましたが、いろいろな本が合戦をするものがあります。(日本古典文学大系の『黄表紙 洒落本集』にはいっていることはまちがいないのですが)、その合戦を調停するのが源氏物語唐詩選なのですが、唐詩選も、和服を着ていたような記憶があります。そういうふうに、当時の人たちは、異国という意識をどのくらいもっていたか。そういうことも問題なのでしょう。