がっかり

en-taxi』に、大澤信亮さんの宮本顕治論がのっていました。
でも、正直言って、残念に思いました。もちろん、宮本批判になっているからではありません。いわゆる「宮本−大西論争」への理解が、「やっぱりこの程度なのか」という感じだったのです。
これは、今後展開していかなければならないテーマだと思っているのですが、あの論争で問われたものについて、まだ認識が弱いところがあるのではないかと思うのです。
文学運動が、労働運動などとちがうところは、人間はそこにいるだけで「生存」しているし、どんな人でも何かしらの「労働」をすることで生きてゆくのに対して、「文学の送り手」は、何もしないでは生まれないことなのです。実は、「宮本−大西論争」で問われていたのは、そこなのです。
ものすごく単純化しますが、「大西」的発想というのは、「文学運動は、すでに文学者として他の場で認められた人たちがあつまるものだ」というもので、それに対して、「宮本」の論理は、「文学運動は、自分たちで文学者を育てることを意識しなければならない」というものだったのです。
論争が行われた1950年代当時は、同人雑誌とか、労働組合のサークル誌とか、文学者を育てる環境はありました。ですから、文学運動の団体自身が、新しい書き手を育てることについては、鈍感でもよかったのです。しかし現在、特に民主主義文学運動で、「他の場で認められた人」を求めることは困難です。自分たちで、新しい書き手を見つけ、育てていかなければならないのです。その点で、「宮本−大西論争」は、見直されなければなりません。

大澤さんはそうしたことを自分の問題としてもっていない人なのか、と思ってしまったわけです。