嫌われる

アジア・アフリカ作家会議のことをこの前調べてみたのですが、そのときの記事の中に、こんなことを発見しました。
1974年7月号の『新日本文学』に、新里金福という方が、「日本アジア・アフリカ作家会議」結成総会報告の文章を書いています。5月25日に東京渋谷の山手教会で結成総会はひらかれたのだそうです。
その中で、こういう議論があったというのです。

規約草案の「開かれた会」にするというねらいに対して、開くのもいいが、そのため破壊分子が組織内にまぎれ込むのを、どうやって防ぐかという質問が出され、白熱した討議がおこなわれた。その結果、審議機能のなかった草案の「世話人会」に、改めて新会員と新世話人を承認する機能を持たせることによって、開放性という当初の理想を貫きながら、しかも破壊分子から組織を防衛する方法が案出され、それを明文化して規約は正式に決定された。

もともと呼びかけ人の中には、野間宏とか、中野重治とか、針生一郎がいて、この結成総会でも、議長にいいだももが選出され、そのあとのいろいろな活動報告や会計報告も、栗原幸夫や田所泉がやっているなど、新日本文学会の人たちが中心としてすわっているからには、この「破壊分子」というのが、『民主文学』の人たちを念頭においていることにまちがいはないでしょう。(その年の秋には、八鹿高校事件も起きています)

呼びかけ人の中には、小田実大江健三郎堀田善衛などの、新日本文学会とは直接関係ない人たちもはいっているのですが、こうした場では、どうしようもなかったのでしょうね。

昔のことではありますが、こんなこともあったということです。