世界観

今月の『民主文学』には、読みどころも多いのですが、その中から、ひとつ。
三浦健治さんが遠藤周作についての長編評論の連載を始めました。遠藤周作はご存知のように、カトリックの信者であり、なおかつ、『沈黙』や『深い河』のように、カトリックの教義通りとは必ずしもいえなさそうな作品を書いた作家でもあります。そのへんのところの追求がされるのでしょうが、今回は、遠藤の初期の評論、「カトリック作家の問題」という文章が取り上げられています。その中で、遠藤は、カトリック作家が、自分の信仰を「護教的、宣伝的な目的のために、作中人物の人間的心理を作為的にしたり、歪めたりするならば、これは、もはや真の意味での文学ではありません」と、書いているのだそうです。フランス文学での話だということですが、ヨーロッパでも、そうしたように、一定の世界観をもっている人が作品を書くときに、そうした世界観と描かれる現実との間の関係が問題になるようです。

世界観と文学ということでいえば、戦前から問題になっているのが、エンゲルスバルザックに関しての手紙です。バルザックは思想的には王党派だったが、勃興するブルジョアジーをリアルに描いたというこの手紙は、ちょうどプロレタリア文学運動が弾圧によって崩れていく時代であったために、作家の世界観など問題にしないほうがいいという、消極的な取りあけられ方をしたのだそうです。実は、志賀直哉小林多喜二宛の手紙も、同じようなとらえ方をされたのではないでしょうか。志賀直哉の手紙も、多喜二が死んだ後に公開されました。のちに、貴司山治のインタビューに答えて、志賀は1935年の段階でこういっています。『志賀直哉全集 第14巻』(岩波書店、1974年)を、新字新かなに直して引いてみましょう。

(志賀)主人持ちの文学でも人をうつものはあるかも知れない。要は人をうつ力があるもの、人を一段高いところへ引き揚げる力がある作品であればいいのだ。そういう作品が現われてくるならば、反対にはっきり主人持ちの文学として現われてきたからといって一向差し支えあるまい。
(貴司)それは今までの貴方の「主人持ち文学否定論」の非常な発展だと思いますが……
(志賀)うん、それはそうだ。ジイドの意見だったか、いま言ったことを本で読んで、その点、自分の今までの考えがまだ一方的であったということにも気がついている。だから小林君に書いた手紙などの中にある僕の意見は今でもまちがっているとは思わないが、そのまま一面的に君達が強調してくれるとまちがってくるおそれがある。

ここで、「一面的に君達が強調」というところが、当時のプロレタリア文学運動の内部で、しっかりした世界観をもつことへの消極的な態度、いわば「転向」の合理化の根拠として、エンゲルスの手紙とともに志賀直哉の手紙も使われたというところとかかわってくるのでしょう。「主人持ち」ということばは、昨年の佐高信さんの発言にいたるまで、誹謗のことばとして用いられてきましたが、そろそろそうした用法は、やめにしたほうがいいのではないかと思います。しっかりとした世界観をもつことと、現実をみつめてリアルに描くことですぐれた作品を生み出すこととは、決して両立しないものではないのですから。