率直に

ノーマ・フィールドさんの『小林多喜二』(岩波新書)です。
プロローグとエピローグが、多喜二への語りかけという形式の文体にしていて、著者がどういう意識で小林多喜二に向かおうとしているのかがよくわかります。
そして、エピローグのなかで、こう書きます。
「作家としてのあなたと活動家としてのあなたをブーム以前から、いや、ブームとは関係なしに、大事にしてきた人たちにずいぶん出会うことができました。東京を遠く離れ、北の風土のなかであなたと信条を共有する人たちと知り合えたことで、私の世界がどれほど豊かになったことでしょう」(248-249ページ)
新書という、入門の意味をもつシリーズで、こうした視点から多喜二が語られることを喜びたいと思います。
こんな文章もあります。
「文学の自立とは、文学が文学だけを目的とする、ということらしいが、それは近代のイデオロギーである。「文学」それ自体、近代の産物であるということの意味を、もう一度考えてみよう。バイブルであれ、「文章経国」に基づいて平安宮廷人が作った漢詩であれ、いや、「文学」に限らず、ラスコー洞窟の壁画や宗教音楽の数々も含め、人類は長らく今日いう「芸術」を通して思想・宗教的、社会的、政治的価値の表現と普及・教育を図ってきた。さらに見逃せないのは、近代文学の核をなしてきた個人の内面描写は、青春の苦悩、そして感傷という癒し、さらには行動回避を正当化する曖昧を美的価値として担ぎ上げることによって大いに社会的役割を果たしてきたことである」(154ページ)
なかなかここまですっきりと言い切るというのも、大変なことだと思います。