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『世界』2月号には、荻野富士夫さんの「なぜ小林多喜二は虐殺されたのか」という論考が載っています。
ここで、荻野さんは、多喜二が『文化の国家管理』という支配の構造に着目していたこと、それを通して、『「軍事的=警察的反動支配」の全的把握』にすすんでいたことを、論じています。それまでの弾圧が、「共産党資金援助」の容疑であったり、作中の記述からの「不敬罪」の適用であったりという、個々の事例を対象としたものであったのに対して、1932年のプロレタリア文化運動に対する弾圧は、文化運動そのものが弾圧の対象となったということで、それまでとは一線を画するものでした。
荻野さんの論は、それをふまえて、多喜二が得た認識が、共産党の「三二年テーゼ」や、『赤旗』の論説やであることを論証しています。
1932年から33年にかけての多喜二の活動が、そうした認識の上にたっていたということから、次に考えることは、当時の林房雄批判に代表される、「右翼的偏向」に対する多喜二の評論の仕事の再検討であると思います。これは、以前は、あまり評価されていなかったような印象があるのですが、小説だけでなく、多喜二は評論にも力をいれていたわけですから、片方だけでは不十分でしょう。評論の分析を通して、同時期の「党生活者」や「地区の人々」のような作品の実相にも迫ることもできるでしょう。この前書いたように、「党生活者」の主人公の女性に対する態度を『批判』するのは誰かということにもかかわってくると思います。