見えなかった未来

雑誌『国文学』(学燈社)の1月号は、プロレタリア文学の特集です。
その中の、中野重治の項目は、室生犀星記念館の館長さんの、笠森勇さんが書いています。その中で、「五勺の酒」の有名な部分を引用しています。「天皇制の頽廃から天皇を革命的に解放する」ことを友人の共産党員に訴える校長先生の手紙の部分です。
ここから後は、笠森さんが書いていることに対しての論ではないので、そこは間違えないでください。

この部分をよく作者の思想そのものと思っている人がいるようですが、それはどうでしょうか。もちろん、作者自身が、この「五勺の酒」という作品を大切に思っているのは事実ですけれど、いつかはこの校長先生に対しての「返事」を書きたいと作者が全集第3巻(筑摩書房、1977年)のうしろがきで回想していることも事実です。その場合の、返事とは、「少なくとも裕仁天皇は、天皇制を〈頽廃〉とも考えていないだろうし、みずからが率先して戦争を指導してきたのだから、裕仁天皇個人の〈解放〉はありえない」という趣旨のものになるだろうと思います。たしか、戦後沖縄を放棄することを容認した「天皇メッセージ」の発表は、中野重治がまだ生きていたときですし、全集第14巻(1979年)の〈うしろがき〉で、その事実に対して批判を加えています。

あと、中野の除名に関して、〈おおきな共産党がちっぽけな中野個人を除名した〉と感じている人も多いのではないかとも思いますが、どんなものでしょう。当時の共産党は、衆議院で5人、参議院で4人という程度の勢力です。その中の、衆参両院から1人ずつ、党の決定にそむくことを公然と表明した人物が出るということ、それに同調して中央委員がさらに2人同調するということは、けっこう大きなできごとではないでしょうか。『中野重治は語る』(平凡社ライブラリー、2002年)のなかに、いままで活字にされたことがなかったので、全集に収録されなかった「漱石について」という1965年の講演記録が収められています。そこで中野は、「私は政治的には日本共産党日本の声というところに属していますが」といっています。「こえ」が漢字になっているのは、校訂者のミスでしょうが、ともかく、かれらは、じぶんたちが間違っているとはこの時点では決して思っていなかったでしょう。いまは国会の議席で2対7であっても、それは将来的にはひっくり返せると考えていたにちがいありません。
そこをあまり見ないで、中野重治を被害者のように扱うのは、いかがなものかと思います。