自分であること

冨原真弓さんの『ムーミン谷のひみつ』(ちくま文庫、親本は1995年だが増補がある)です。
ムーミンのシリーズに登場する、いろいろな「もの」(「人物」とはいえませんよね)についての考察をまとめています。原作を読んだのは子どもの頃ですが、けっこう覚えているもので、ここで触れられた内容も、「そういえばそうだった」というというものもあります。

原作者が、フィンランドに住みながらスウェーデン語を使い、スウェーデン語で創作をしていることは、今はけっこう知られていると思います。そういう意味では、ヤンソンさんは、国の中でのマイノリティーでありつづけたということになるのでしょうか。そうした中で、自分の場所を、ムーミン谷という仮構の存在のなかに、つくっていったということは、考えるべきものがあるようにみえます。

マイノリティーであるものが、脚光を浴びることがあります。そのとき、マジョリティーのほうからのアプローチの中には、マイノリティーのもっているプライドを傷つけるものもあるでしょう。それに対して、どう考えるのか、「とにかくアプローチがあるのだからそれを逆手に取ればいい」と思うのか、それとも、「マイノリティーのプライドを破壊するようなアプローチは、拒絶とまではいかなくても異議申し立てをするべきだ」と考えるのか、一筋縄ではいかないのでしょう。池澤夏樹さんの「カデナ」(『新潮』連載、未刊)のなかに、大阪の万博で、日本館のなかで沖縄のバンドが演奏するとき、どういうスタンスで行くのかをめぐって、いろいろと意見があったという場面が設定されています。ここにも、そうした問題がかかわってくるのでしょう。そういえば、宮本百合子も、戦争中に、文学報国会のアンソロジーに原稿を送るかどうかで、宮本顕治とやりとりがありました。