立場

蟹工船』が映画化されるそうです。
ただ、映画というメディアの特性から、〈主演〉として、労働者を立ち上がらせる役目の人物に名前を与えて中心的存在にすえるというのです。
マンガ版でも、いくつかのものでは、やはりそうした中心的な人物を仮構しているものもあるようです。たしかに、〈絵〉でみせるものは、特に実写なら、そうした、『固有性』が必要になるのでしょう。
けれども、もともと小説で多喜二が意図したものは、それとは違うのではないかとも思います。「三月十五日」や「東倶知安行」を書いた多喜二は、〈たたかう人間〉のありようを考えたにちがいありません。そのとき、〈英雄的〉な人間がたたかえるのではなく、どんな人でも、その〈場〉にいたならば、必然的にたたかいの場面に遭遇するのではないかと、考えたのではないでしょうか。「三月十五日」の渡が拷問に耐えられたのは、かれが戦闘的だったからではなく、彼が自分の持場である、労働運動を誠実に実践していたから、それにふさわしい存在になったからではないか、と多喜二は思ったのではないでしょうか。それは、一見平凡な、とりえのないように見える人でも、ちゃんと、場が与えられればそれにふさわしい「仕事」ができる、人間にはそういう可能性があるのだと、いいたかったのかもしれません。その主題には、『蟹工船』は、最適の材料だったのでしょう。

ところで、多喜二は『戦艦ポチョムキン』の映像そのものはみることは当然できない(日本で見られるようになったのは1950年代になってからだと聞いています)のですが、内容は知っていたようです。日本に、この映画の内容や意義を紹介したのはどなたなのか、ご存知の方は教えていただけませんか。