今になって

文芸誌を適当にみているのですが、『文学界』では、〈同人雑誌評〉が今回で終わるというので、担当者の座談会があります。担当だったうちの一人、勝又浩さんが、今後は、『三田文学』で同人誌評のコーナーが残るので、そこで続けるということを語っています。
そうなると、『民主文学』の支部誌・同人誌評と、そこからの推薦作公募というシステムは、いまや貴重なものといえるでしょう。『民主文学』12月号は、その恒例、「支部誌・同人誌推薦作」特集です。その中では、宇野渉さんの、「ブリキの金魚」が、課題は残るものの、発想がおもしろいのです。今の小学校では、総合学習の一環なのか、町の郷土資料館のようなところで、その町の老人に、当時の暮らしを話してもらうという学習計画をたてたようです。そこで、孫がその小学校に通っている老女が、その役をはたすのです。(作品のレベルでいうと、この老女があまり女性らしくないというのは、問題になるかもしれませんが)彼女は、自分の経験と、目の前の小学校の教師や児童の様子を見て、今の社会へと思いをはせるのです。
作中の設定からすると、この女性、1933年から1935年の間の生まれです。この世代は、戦中の教育と戦後の教育とのギャップを一番強く感じている世代のはずです。また、20代後半の時期に安保闘争にふれているはずです。
そうした女性ですから、社会への批判的な眼をもっていて、今の小学校の管理体制が、かつての戦時中と似ているように感じています。そうした女性を設定したところに、作者のくふうがあるのでしょう。

それはそれとして、『民主文学』の12月号の、支部誌・同人誌評は、洲浜昌弘さんが書いています。そのなかで、『あやとり』という雑誌に掲載された、宮城肇さんの作品を批評しています。洲浜さんはほめるつもりで書いているのでしょうが、その中にこうあります。「ことの趣は異なるが、ドーデの「最後の授業」を思い起こさせる。志と格調のある作」
何日か前に、田中克彦さんの『ことばと国家』を岩波新書の3点としてあげましたが、そうした本も出ている今、「最後の授業」を引き合いに出すというのはいかがなものでしょう。『最後の授業』という作品は、日本におきかえればこうなるのですから。

――1945年、台湾の山岳民族の「ぼく」が学校に行くと、いつもと様子がちがう。『国語』の先生である、内地からきた先生は、「きょうで国語の授業も終わりです。明日からは南京政府から新しい先生が来て「普通話」を教えるようになります。けれども、『国語』をまもることは大切ですから、みなさんもしっかり勉強してください」と内地から来た先生は語って、学校をあとにする――