出発点

風見梢太郎さんの『浜風受くる日々に』(新日本出版社)です。
1965年の、甲子園球場の近くにある中高一貫の私立高校に通う主人公の生活を描いた作品です。といっても、主人公は、高校からこの学校に入ったので、最初は勉強についていくのが精一杯で、クラブ活動などもやる余裕がない状態だったのですが、2年生になったこの年、ようやく新聞部に入部して、そこで新しい人間関係をつくっていくのです。
当時、中高一貫の私立に通う生徒というものは、同世代のなかでも少数派であったでしょう。だからこそ、主人公のような、いわば「自分の頭脳」だけで勝負せざるを得ない立場のものにとって、周りの生徒たちのなかにある、「精神的なゆとり」というものに、どう対していくのかが、彼の生涯を決めてゆくことになるのです。
たとえば、同じ高校からの外進生のひとりは、将来は東大法学部から官僚になり、大企業の経営者の娘婿の座をねらうという、『華麗なる一族』の世界を(考えてみれば、ちょうどこの作品と同時代の同地域を描いています)目標として、そのためには「いま」を犠牲にしてもかまわないとも思っています。一方、勉強についていけなくて、とうとう学校をやめ、別の高校に転出していくものもいます。そういうなかで、主人公は、自分の家庭環境をみつめ、その中でも卑屈にならないで生きてゆくためのみちをさぐっていくのです。
与えられた環境は環境として、まずは受け入れなくてはいけません。そこから、どのような生き方を選ぶのか、この時代はまだそれが信じられたのかもしれません。格差社会のいま、「環境を受け入れろ」ということばは脅迫に聞こえるのかもしれないので、慎重に使うしかないのでしょうが、自分という存在を、客観的に見ることは大切です。居直りもせず、卑屈にならず、思えば主人公のゆくすえは、そことのたたかいになるのでしょう。

初出でみて気になったところで、本で直っていないのが、この学校が戦前の中等野球大会で優勝したときの相手校で、「宇部商」とかかれていますが、実際にモデルの学校が優勝したときの対戦相手は「宇都宮商」だったのです。

ついでに、主人公が甲子園で高校野球を見る場面で、投げているのはその年の準優勝投手で、すぐにプロ入りした木樽正明投手ですね。実名は作者は出していませんが、そうしたことも気にして読むと、けっこうおもしろいものがあります。