被害者

河出書房新社から、『小林多喜二と「蟹工船」』が出ました。
昨日はああ書きましたが、とりあえず、こうした本が出ることはよいことです。
赤木智弘さんが、「蟹工船」の浅川は正社員だから、正社員が非正規をいじめるという自分の論理は間違っていないと主張するのも、彼にしてみれば当然のことなので、そうした文章が載ることは、作品世界を理解する広がりにもなるのでしょう。
巻末の年譜で、志賀直哉のところを訪問したのが、1932年の春という、ずっと昔の誤りを踏襲しているという「ほほえましい」部分もありますし、手塚英孝さんの文章も、著作も紹介されていないというところも、まあ河出ならしかたがないのかなとも思います。
浅尾大輔さんと陣野俊史さんの対談でも、『民主文学』に浅尾さんが載せた作品について言及がないことも、それが現在の文芸誌の現状だと思えば、しょうがないことだとあきらめもつくというものです。もちろんそれは、多喜二の作品が広く読まれてこなかった理由と関連するわけで、そこの分析は、もっと慎重にされるべき必要があるはずです。
というのも、小森陽一さんがこの本の中(p12)でこう書いています。
「六三年から六四年にかけては、イギリス、アメリカとソ連との間での「部分的核実験禁止条約」や、中国が核兵器保有することべき様々な党内の意見の違いがあり、社会党系と共産党系の間で原水爆禁止運動が分裂すると同時に中野重治神山茂夫らが共産党を除名されるということが起こりました。(改行)国際的な共産主義運動の様々な勢力争いの中に文学者が巻き込まれていく中で、小林多喜二だけが日本共産党を代表する作家のように位置づけられてしまって、多喜二というと共産党という図式が作られてしまいました」
はて、中野重治佐多稲子は「巻き込まれて」いたのでしょうか。そのころ親の仕事でプラハにいた小森さんや米原万里さんは、「巻き込まれた」のかもしれませんが、中野重治はけっして「巻き込まれた」という受動的な態度をとったわけではありません。『事実に立って』(筑摩書房、1965年)という評論集が中野にはありますが、この本の中で、彼は、日本共産党の路線がまちがっていることを論証しようとしています。佐多稲子も、『塑像』(講談社、1966年)という作品の中で、作者と等身大に読まれることを否定しない主人公が、日本共産党の路線が誤っていることを選挙の応援演説で明らかにする場面を描いています。当時の状況から「除名」という結果にはなりましたが、彼らは、自分の信念で日本共産党を批判する側にたち、日本共産党を否定する言説を、評論や小説の形で書き続けてきたのです。彼らの作品は文芸誌に迎えられ、彼らの主張する、「日本共産党にとどまる人間は文学者として意味がない」という意見が、文芸誌に広く受け入れられました。最近の、浅尾さんと対談した吉本さんの意見も、それに近いものを感じることができます。
そのために、江口渙さんや窪田精さん、松田解子さんや津田孝さんは、そうした場面にででこなくなったのです。
そういう意味では、津田孝さんは、今回の河出の本でも、参考文献にも出てきません。津田さんには、1982年から83年にかけての『小林多喜二全集』(新日本出版社)の月報に連載した論考をまとめた、『小林多喜二の世界』(新日本出版社、1985年)という本もあるのですが、版元も手塚さんの本は再刊してもこの本のことは忘れているようで広告もみえません。勢力争いに巻き込まれたというのなら、そのために同じ場で評価されなくなったこうした人たちこそが被害者であって、中野や佐多を被害者めいて扱うとしたら、それは大きく言えば歴史の偽造になるのではないでしょうか。
少しきつい言い方ですし、「こうしたブログでしか発言できない〈ねこぱんだ〉ごときが何をいうか」と思われるかもしれませんが、確信犯に甘い状況に対して、だまっているわけにはいきません。