過渡期

沢木耕太郎さんの『冠』(朝日文庫、親本は2004年)です。
アトランタオリンピックのときの、沢木さんの取材記というかたちで、オリンピックの現状を探ったものです。
1996年といえば、ちょうど「えと」の一回りになるわけですが、オリンピックそのものも、また選手の姿も、ずいぶんと変っているように見えます。開会式が夜におこなわれて、派手な演出がくりひろげられるようになったのも、このへんから(たしかソウルまでは昼におこなっていたと記憶しています)ですし、プロがオリンピックに参加するようになったのも、このあたりからでしょう。別の舞台をもっている者たちがオリンピックにはいったときの違和感は、今回の野球の日本チームでも明らかになりましたが、そのさきがけともいうべきバスケットボールの「ドリームチーム」の醜悪さについて沢木さんは触れていますが、そうした予言めいた部分を、今からふりかえるのもおもしろいといえばいえるものです。
また、柔道の田村選手が、このときは銀メダルだったわけですが、もうこのへんが限界ではないかと感じたのは、当時の選手の姿からいえば、ある程度は無理もないことだったのでしょう。水泳の選手団もずいぶんと若かったようですし、なにより、田村選手自身が、その後3回連続でオリンピックでメダルを獲得するほど長く第一線で活躍できるとは、このときには想像もつかなかったのでしょう。(ちなみに、このとき、田村選手が自転車の選手といたときのツーショットの写真を撮られたそうです。谷佳知選手は、野球の代表の一員としてアトランタにいました)
日本に限らず、とくに女子の選手の寿命が延びつつあるのが、このころからでしょう。そうした面でも、過去をよくみることも大切なのでしょう。もし本当に東京にオリンピックを誘致しようというのなら、どんな大会にするのかというイメージを、しっかりともたなければなりません。