実録の重み

今井和也さんの『中学生の満州敗戦日記』(岩波ジュニア新書)です。
きのう、「敗戦」ということばはなるべく使いたくないといいましたが、この著者のように、外地にいて引き揚げた人にとっては、「敗戦」以外のなにものでもないのでしょう。それまで、自覚するとしないとにかかわらず、植民地における支配側にたっていたのが、いっぺんにひっくり返ってしまうのですから。
著者は父親がハルビンの大学に赴任した関係で、一家そろって満洲に向かいます。そして、中学生のときに敗戦を迎えて、引き揚げてくるのです。ソ連侵攻の直前には、ハルビン近郊の「開拓団」に勤労奉仕にいっていて、少しタイミングがずれれば、もどれなかったかもしれないという体験をしています。
引き揚げにいたるまでのいろいろな体験が語られるわけですが、最初に侵攻してきたソ連軍と、そのあとハルビンを占領した八路軍との差は、当時の著者の目にもあきらかだというのです。ロシアの兵隊はものをとっていくが、八路の兵隊は「借りていく」(きちんと借用証も書いたということです)そして、引き揚げ途中に、国民党軍支配下の地域にはいると、兵隊が「時計をよこせ」と避難民に要求する。こうしたところにも、歴史の重みはあるのですね。

こういう体験をした人を、「後期高齢者」にしておいて、〈国のために命をささげた〉ひとのために神社にいくという感覚が、よくわかりません。引き揚げ途中で亡くなった民間人の人は、そうした神社にはまつられていないのですから。