両義性

藤忍随『ギリシア文学散歩』(岩波現代文庫、2007年、親本は1987年)です。タイトルはなんとなくラフな感じをうけますが、内容は、デルポイの神託をくだす、アポロン神のありようを、さまざまな作品の中に探っていくものとなっています。それは、ホメーロスのような叙事詩だけでなく、ヘロドトスプラトンも俎上にのぼるのです。
さて、その中で、ソポクレスのオイディプス物語を材料にとった作品のところなのですが、ご存知のように、オイディプスは「自分の父を殺し、母と交わる」という神託を受けて、それが実現しないように努力を重ねていたのですが、実はその予言が実現してしまうという状況に追い込まれます。そして彼は、自らの眼をつぶして、流浪の運命を選びます。
そこまでは記憶していたのですが、ソポクレスはその後、「コロノスのオイディプス」という作品を書いて、オイディプスの「倫理的無罪を正面に打ち出そうとしている」と、著者はいいます。「積極的意図なしに、知らぬ間に罪を犯した者は、真実の罪人であるはずがない」と、ソポクレスは描いているというのです。
ずっと昔、「コロノスのオイディプス」を読んだことは読んだのですが、すっかり忘れていたので、著者のこの指摘にはびっくりしました。すると、最近読んだ、別の作品のことを思い起こしたのです。
それは、「存在の耐えられない軽さ」のことです。あの作品で、主人公の医師は、ある雑誌に、スターリン主義者のひとたちをオイディプスになぞらえた文章を書き、それが原因で、当時の政権から危険人物だとみなされたということになっています。本人がいかに主観的には努力したとしても、客観的にスターリンの言いなりになったのではないか、オイディプスのように責任をとるべきだと、主人公はいおうとしたのだと、当局は判断したのです。しかし、ソポクレスの描くオイディプスは、そんなに単純ではありません。すると、ミラン・クンデラ自身の意図はどこにあったのか。単純なものではないようにも見えるし、単に主人公がものごとを単純化してしまっただけのようにも見えるし、そうした複雑さをもって、このエピソードがみえてくるのです。