奪う

金時鐘訳『再訳 朝鮮詩集』(岩波書店、2007年)です。
もともとは、1940年に金素雲さんが翻訳して刊行し、1954年に岩波文庫に収められた『朝鮮詩集』に収録された作品を、金時鐘さんが改めて原詩から訳しなおしたものです。そういういきさつもあって、上下2段に組まれたこの本は、上段に日本語訳詩、下段に朝鮮語の原詩が収められています。
ハングルは読めないし、朝鮮語も知らないので、下の段は見るだけですが、こうした、独自の文字をつくりだした民族を、植民地支配のなかで言語を奪うようになった日本のありようは、知らなければならないことでしょう。最近、当時の朝鮮半島のインフラ整備を、「近代化に資した」と称して、日本の「功績」だという人がいるそうですが、そういう人でも、文字や言語を奪うのを「功績」とはいくらなんでもいえないのではないでしょうか(でも、何かと理屈をつけるのかもしれませんね。ハングルは神代文字をまねたものだというとか)。
訳の内容を、両者比較する力量はないので、内容にはふれられませんが、それでも、当時の朝鮮語の詩の世界が、豊かであったことはうかがえます。できれば、いつ作られたのかの年もわかるとよかったとは思います。
作者の略歴のなかに、戦争で「越北」して、その後粛清されたとかいう経歴の人もいて、20世紀後半の朝鮮半島の「むごさ」も知らされるわけで、それも、日本が「奪った」もののひとつなのでしょう。

この前の、平壌でのアメリカのオーケストラ公演を報道した、夜のニュース番組で、古館なにがしが、「こういうのを聴けるのは一部の限られたエリートだけだ」という趣旨の発言をしていましたが、そんなの当然のことで、かりに日本で同様のことがあったとしても、入場券を買えるのは限られた人でしかないわけで、それを鬼の首でもとったようにわざわざいうのは、言った側の見識が問われるのではないかと思います。少なくとも、アメリカのトップクラスのオーケストラの演奏を聴いて、きちんと鑑賞できる「エリート」が、あの国には一定程度いるということを、きちんと認めないと、議論も何もないでしょう。