みごとな出会い

右遠俊郎さんの『小林多喜二私論』(本の泉社)です。
最近の非正規雇用の流れのなかで、小林多喜二が、特に「蟹工船」が脚光を浴びていますが、この本は、1970年代初めに右遠さんが書いた作品論を中心にして、著者の多喜二論を集成したものです。
この前、浅尾大輔さんが、『民主文学』に「蟹工船」に関するエッセイを書いたときにも、右遠さんの〈「蟹工船」論〉を執筆最終段階で知ったと書いていますが、その論も、この本には収録されています。
「東倶知安行」と「党生活者」との、「私」という主体が登場する二つの作品を論じるところから、著者の多喜二との格闘がはじまるのですが、そこには、小説を書くという立場からの、作品への向かい方がポイントになります。それは、のちに〈壁小説〉と呼ばれた、プロレタリア文学運動のなかで試みられた短い小説を論じた中で、「描かれようとする対象への恐れ」「命賭けた愛着」があらわれている作品をあげ、「文学作品が読み手に感動を与える場合の基本は、その前提に、この恐れまたは愛着が隠れて在る」といいます。
そうした「恐れ」や「愛着」を、著者は多喜二の世界に発見しています。そこに、この本に納められた論考のおもしろさがあるのだと思います。
以前、「悪人」に比べると「メタボラ」は問題外であるという趣旨のことを書いたと思いますが、それは、この右遠さんのいう、「恐れ」や「愛着」の有無の問題なのだと思います。桐野さんがなんといおうと、焦点はそこです。