隅をつつく

ティル・バスティアン著、石田勇治・星乃治彦・芝野由和編訳『アウシュビッツと〈アウシュビッツの嘘〉』(白水Uブックス、2005年、親本は1995年、原著は1994年)と、笠原十九司南京事件論争史』(平凡社新書、2007年)の2冊をまとめてみました。
日本とドイツとは、戦争責任の問題についての対応がちがうとよく言われますが、アウシュビッツと南京とについても、それぞれの国のありようがみえてきます。とはいっても、ドイツにおいても、法律で罰しなければいけないほど、アウシュビッツを否定したい人たちが存在してはいるということなので、その点では、みずからの行為を直視したくないという心理は、どこにでもあるものかもしれません。
細かな数値のちがいだの、証言のくいちがいだのを問題にして、それをもって全体を否定するという手口まで、東西似ているというのも、人間の考えることはそんなに変わりないものといえるのかもしれません。
ドイツの本を翻訳しようとしたきっかけとして、1995年に、当時文藝春秋から出ていた『マルコポーロ』という雑誌に、ホロコーストの存在を否定する論文が出たことが、あげられています。この雑誌は、この論考を理由に廃刊となったわけですが、たしか、同じ号に、「保守二大政党を展望する」とかいう記事もあって、共産党を除く議員たちを二つにわけるという企画があったことを、思い出します。詳細は忘却のかなたになっているのですが、共産党以外の党派が、「保守二大政党」に収斂していくという方向の記事だったようにおぼえています。それから13年たちますが、この雑誌がつくろうとした流れは、決して消えていません。『マルコポーロ』の編集長だった人は、たしかいま『WILL』とかいう雑誌にたずさわっているのではなかったかと思いますが、この雑誌が、「『南京』否定」の急先鋒であることは、ご存知の方も多いのではないかと思います。
そういう点で、この2冊をまとめてとらえることで、歴史の事実をどうとらえて、継承していかなければならないかということについて、しっかりと受け止める必要を感じないわけにはいきません。それが、かつて加害側だった国に生きるものの責任なのでしょう。