死の方向

暑いので、拾い読みですが、ハンガリーの作家、モルナールの戯曲『リリオム』(岩波文庫徳永康元訳、1951年、原作初演は1909年)と、角川文庫の『近松世話物集 一』(諏訪春雄校注、1970年)です。
いずれも、主人公が死んでしまう話だというと、乱暴な言い方になってしまいますが、経済的においつめられた主人公が、打開策を見出せないという方向は共通点がなくもありません。
もちろん、18世紀の日本大坂と、20世紀初頭のハンガリーブダペストでは、置かれた環境はまったく違うわけですが、客観的に見れば、悪人でもないのに、友人に金を貸したばっかりに、証文の印がにせものだと言いがかりをつけられて金が返せなくなる「曽根崎心中」の徳兵衛と、妊娠中の妻をつれて新世界へ脱出したいと考えて、工場に給金を運ぶ男を襲撃しようとして失敗するリリオムとには、生きるつらさを感じさせるものがあります。
それが、心中という形をとる徳兵衛と、襲撃に失敗して負傷して死んでしまうリリオムとの違いを、逆にきわだたせることになるのかもしれません。それが、200年の時代の差ともいえるのでしょう。それは、徳兵衛に、言いがかりをつけられた「友人」と対決しなかったことを責めるものではもちろんありません。