脱出

昨日の、「ストップ貧困」のことですが、どうしても貧困状態が続く限り、どこかに脱出の道を探らなくてはなりません。その点で、参考になるかと思うのが、石川達三の『蒼氓』三部作(新潮文庫旧版、1951年)でしょうか。
時は1930年、あたかも普通選挙で(男子のみですが)政友会・民政党の二大政党制がいちおうは成立した時代です。ブラジル移民のために全国から集まった、神戸の移民のための施設でストーリーははじまります。第一作の「蒼氓」で作者は第一回の芥川賞を受賞しました。その後、続編として「南海航路」「声無き民」と連作が発表されて三部作となったのです。ひとつの家族が、移民を決意して神戸に着き、そして船に乗ってブラジルに行って、新しい土地に定着しようとするところまでを描いています。
作者は、この移民業務の監督をしていたようです。その経験をもとに書いているので、どうしても移民を是とする立場になるのはしかたのないことですが、「南海航路」のなかに、こういう記述があります。監督の人がシンガポール入港のときに思うことです。(新字・新かなで引用します)

移民に国費を与えて海外へ出してやれる事はよいが、中国は元々移民を出す必要がないのではなかろうか。国土狭小な日本ではその領土の中で養っていけないほど国民がいるから、移住の必要が出てくるのではないか。英国民には一人の外国移民もいはしない。みな自国の領土内で土地を持つことが出来るからだ。日本は厖大な予算をとってまでも国民を海外へ出さなくてはならない。むしろこれは国家としての不幸を象徴しているのではなかろうか。(138ページ)

ここでいわれる「英国」の「領土」に、インドなどの植民地が含まれていることはいうまでもありません。ここでは、海外に植民地をもつことが、国家として当然であるという発想があらわれています。歴史の事実として、この作品世界の次の年に「満洲事変」が起きるわけで、そうした形でしか貧困からの脱出を発想できない、想像力のありようが問題になるのだと思います。そういう面で、この作品は、今ある意味「反面教師」的な読み方をすることもできるのではないでしょうか。

あと、ついでの話ですが、この作品に登場する助監督が、あやしげなあんまを人びとに伝授するのですが、そのときに、この助監督の男が、正座して「一尺五六寸」も飛び上がるのだそうです。この本がもっと知られていれば、あの「空中浮遊」のいんちきはすぐにわかったのでしょうに。