とらえなおそう

宮本顕治さん、死去。
小林多喜二たちとともに、プロレタリア文学運動にたずさわり、弾圧の中、いわゆる「地下活動」をして、別の名前で評論などを書いていました。
検挙された後は、公判以前は黙秘をつらぬき、そのあとも、妻の宮本百合子にあてた手紙で、文学や情勢についての鋭い分析や百合子への指示を出していました。
戦後、解放されてからは、いわゆる「50年問題」のなかで文学活動に力を注ぎ、『宮本百合子の世界』(全集の解説)や、『批判者の批判』(大西巨人との論争など)を執筆、民主主義文学運動のあり方についての貴重な発言を残しています。とくに、『宮本百合子の世界』では、当事者としての貴重な発言もあり、もっと参考にされるべきものだと思います。
むかし、中村智子さんという人が、〈百合子が戦前に共産党に入党していたというのはうそではないか〉と言いがかりをつけたことがありましたが、『宮本百合子の世界』のなかには、どこかに戦前から共産党にはいっていたことを明示する部分があったように記憶しています。その点で、中村さんは、勇み足だったのではないかと思っています。しかし、そのとき、中野重治はきちんと中村さんに反論したのですが、佐多稲子は、いま覚えているレベルでは、その件に関しては沈黙していたと記憶しています。こういうときの対処にも、人間性があらわれるのではないでしょうか。

追記−7月22日)
宮本顕治文芸評論選集』第3巻の355・356ページ、「宮本百合子の世界(十四)」の中に、こういう文章がありました。

「この年譜では、一九三一年の共産党加入が発表されてない。したがって一九三五、六年の拘禁・裁判についての背景もその点明らかでない。
宮本百合子は、一九三二年以来、たびたび検挙され、竹刀でなぐるなどの拷問もうけた。警察も文学団体内の党組織の全貌をつかむことは最後までできなかった。その組織の一角はこわされたが、彼女や他の部分は最後まで守られた」