想像力のなさ

中国残留者の訴訟の東京地裁の判決ですが、その中に「母国語を失ったことがそんなに重大なこととはいえない」という趣旨の判決文があるそうです。明治の条約改正のなかに、日本人が日本語で裁判をすることが重大な要件としてあげられていたという過去すら、日本の司法は失ってしまったのでしょうか。ことばを奪われることの苦しみを想像しない(あの今や悪名高い「最後の授業」が教科書に載っていたころに、今の裁判官は小学校に通っていたのではないでしょうか)司法官にたいして、ことばでこうして表現するものとして、憤りを感ぜずにはいられません。
司法に対して、国民ができるのは最高裁の国民審査があるのですが、それはなかなか高いハードルであることは、わかっているのですが、なんとかそういうものを変えていかないと、そのうち、『英語を公用語に』とかいった政治家の尻馬にのって、裁判は『英語で』行なうことになるかもしれません。
ことばは大切なのです。