『私』という存在

服部達の『われらにとって美は存在するか』(審美社、1968年)を読んでみました。彼は、1922年生まれで、1955年前後に活躍した評論家なのですが、1956年にみずから命を絶ったといいます。「メタフィジック批評」を旗印にして、民主主義文学とは全くちがう立場をとっていました。彼にしてみれば、「左翼陣営の文学者たちには、私小説的思考法の弱点が、しばしば拡大されて現われている」(『中野重治氏へ』(1955年))というのが主張なのですね。宮本百合子の作品に対しても、「宮本節」の好きな人に向けてかかれたものだというようなことも書いています。
ここで服部が引き合いに出しているのは武井昭夫が中野の「むらぎも」を批評した文章なのですが、ここに書かれている限りでは、武井が作中人物と作者を混同しているという服部の指摘は真実をついているとはいえるでしょう。しかし、それを「左翼陣営」全体にひろげることが妥当なのか、ということです。中村光夫が、『風俗小説論』だかで、中野重治宮本百合子の作品も、結局は私小説ではないかという議論をしたのと、同じ発想なのかもしれません。
前にも書いたと思いますが、「私」という一人称がもつ表現の可能性は、けっして「単なる事実」ではありません。特に、社会のなかでみずからがもつ可能性(むかしふうに言えば〈歴史的使命〉でしょうか)を自覚して、そのために行動する主人公だとしたら、その「私」は、単なる個人ではありません。
浅尾大輔さんが、自分のブログで、こんど『学習の友』に書いた作品は「わたしたち」を主語にすえてみたということを書いています。詳細は読んでからのことにしたいのですが、そうした彼の試みは、「わたし」をばらばらな個人にしてはいけないのだという、彼の意気ごみのあらわれだと思います。その点で、注目する必要があるのではないでしょうか。