議論のとっかかり

多喜二の特集のなかの、祖父江昭二さんの「小林多喜二社会主義」という文章や、北川透さんの『中野重治』(近代日本詩人選、筑摩書房、1981年)を読んでいて、マルクスエンゲルスの文学に関する言及に対して、どう考えればいいのかについて、少し頭をつかわなければならないのかもしれないと、思います。
北川さんの本は、ある意味予想通り、1920年代の中野のマルクス主義受容のあり方に対して、批判的な眼をもってみています。当時のプロレタリア文学運動が文学の観点からはつまらないのだという意見は、別に珍しくもないでしょう。
祖父江さんはマルクスエンゲルスのことばが、多喜二の時代にはまだ紹介されていなかったことが、多喜二の社会主義理解を決定していったとみているようです。

で、そのマルクスのことばというのは、例のギリシア叙事詩などをれいにとって、なぜそれが現在でも感動を呼ぶのかということへの問いかけです。
でも、思うのですが、感動を呼ぶのは、やはりその作品が、当時の時代や社会を映し出しているからではないでしょうか。
変な例を出すかもしれませんが、15歳くらいの女性が、男性に恋をするというシチュエーションを考えて見ましょう。シェイクスピアのジュリエット。後深草院二条(『とはずがたり』)、金八先生杉田かおるが演じた女の子。ならべてみると、それぞれが生きている時代の、いろいろな桎梏やらイデオロギーやら、そういうものに支配されてみんな生きています。そうした点が、感動を呼ぶのであって、社会や歴史から離れた、単なる「恋愛」が心をうつわけではありません。
紅楼夢』の黛玉さんは、襲人と宝玉との関係に対して嫉妬はしません。襲人は黛玉さんからは別の身分の人だからです。「嫉妬」ですら、社会を超越するものとはいえないのです。
なぜ、こんな簡単なことで、大騒ぎをしているのでしょうか。そこに、文学をめぐる問題があるのかもしれません。
エンゲルスの手紙は、いずれまた。