何をいいたいのか

『解釈と鑑賞』の多喜二の話をもう少し。
じっくり読んだわけではないのだが、どうもよくわからないのが、「一九二八年三月十五日」をあつかった土屋忍という人の文章である。
暴露小説として読むべきではないという、全体の趣旨にはとくに問題があるとは思えないのだが、そこで引用されるのが田中清玄だったり、特高の回想記だったりする。多喜二と思想的に反対の立場の人間の記録が、その立場なりの合理化がなされるのは当然だと思うのだが、そうした発想も土屋さんには「記録的価値の呪縛」とでもなるのだろうか。特高だった人が「暴力は用いない」というのをそのまま、「だから戦後の回想記を書けたのだろう」と記す、土屋さんの発想は、正直言ってよくわからない。

※今回は内容が内容なので、「です・ます」ではありません。