今だからこそ

http://f-mirai.at.webry.info/
というブログを見ました。関西方面の方らしいのですが、小林多喜二について語っているブログです。
そこで、この前発行されたばかりの、『国文学 解釈と鑑賞』の別冊、〈「文学」としての小林多喜二〉についての話題が広まっています。
いまそこで中心的に語られている、島村輝さんの「『党生活者』論序説」について、簡単なことをここでもとりあえず書いておきましょう。
「政治と文学」論争が、平野謙中野重治という構図に収斂していくように語られたこと自体が、ある意味では不幸なことだったのではないかと思っています。そこでは、「党生活者」という作品についての議論が、どうしても女性問題に限られる、それも「ハウスキーパー」ということにかんしてのものにベクトルが向いていて、その面からのこの作品の肯定か否定かになってしまう。しかも、もともとプロレタリア文学を冷ややかにみていた平野のみならず、中野も実は発表当時に手紙の中で「党生活者」を否定的に見ていた事実が没後判明したように、決して当時の小林多喜二を評価する立場にいなかったことが、そのあとの経過をより複雑にしたと思っています。たとえば、宮本顕治宮本百合子が、このとき「ハウスキーパー」問題について発言していた事実についても、宮本百合子の発言については、ほとんど誰も語ってこなかったことがあります。だから、島村さんが引用している中山和子や布野栄一のような意見が、1990年代になっても横行していたのでしょう。布野さんも、本庄陸男についての研究書を出したひとですが、プロレタリア文学運動そのものについては、あまり肯定的ではないようですし。
 そうした枠組みを再検討していくうえでの、ひとつの問題提起として、島村さんの論文は読まれるものだと思います。「序説」ですから、さまざまな提起がありえるでしょうから、詳細は今後ということでしょう。
 とりあえずの感想です。また、この別冊にそれ自身についても、今後論及するかもしれません。