わかってもらえること

毎月やっている、内輪の読書会で、中島敦の作品を取り上げました。「弟子」と、沙悟浄を主人公にした二つの作品です。
中島敦というと、教科書でおなじみの「山月記」がありますが、あの作品も、主人公が自分の才能を磨ききれずにトラになって、誰も自分をわかってくれないと嘆くというのが、作品の中心にありました。
今回久しぶりに「弟子」などを読んだのですが、いずれも、自分を認めてくれる存在をさがしている、自分をみつめようとする、そうした登場人物たちがいるようです。子路にとっての孔子や、悟浄にとっての三蔵法師は、いずれも自分をわかってくれる存在だからこそ、自分を預けられるというところなのでしょうか。
いつも中島敦を考えるときに、同年生まれの太宰治の「富嶽百景」を思い出します。あの作品は、太宰が、妻になる人の実家に行き、自分の仕事をわかってもらおうとする場面が印象的なのですが、そこでは、自分の仕事が理解されたことで、太宰(主人公)は思わず涙を流すのです。「山月記」の李徴が、虎になって「誰もおれをわかってくれない」と涙を流すのと、好対照となっています。
時代の閉塞感を、彼らがどのようにつかんでいたのかはよくわかりませんが、その中で自分を理解してもらうことに、ポイントを見出そうとしていたことは、わかります。