異神? 外法?

田中貴子さんの『外法と愛法の中世』(平凡社ライブラリー)を読みました。こうした本が廉価版で出るのはいいことだと思いますが、その〈外法〉とされているのが、だ(咤からうかんむりをとった字)枳尼天の修法です。
ダキニの名は、昔幸田露伴の「魔法修行者」というエッセイを読んだ時に知ったのですが、そこでもタイトルにあるように、なにやら怪しげなものとして書かれていました。
でも、田中さんの本の、ライブラリー版へのあとがきで、天台の僧のかたから、「困りますがな、外法なんて言うてもろうたら。まるで私らが怪しいことことしてるみたいや。だ枳尼天法も聖天法も、ちゃんとした修法ですよ」といわれたことが紹介されています。外から見れば微妙なものも、やっている人たちには真剣なものとして位置づけられるのは当然ですが、そうした歴史に堪えていくものが、信仰として残っていくのかどうかの分かれ目なのでしょうか。
同様の本で、山本ひろ子さんの『異神』(ちくま学芸文庫)を読んだときも、摩多羅神という呪法になるような神が出てきました。これも何だろうと思っていたのですが、昨年の秋に、日光に行ったときに、たまたま日ごろはあいてないお堂が公開されていて、見ていたら、そこである男の人が、そこにいたお寺の関係者に、ここはどんなところなのかと尋ねたら、お寺のかたが、さらりと「摩多羅神をおまつりしています」と答えたのを耳にしました。ここでも、きちんと位置づけられているのだなと、認識しました。
ついつい今のわれわれは、古事記日本書紀そのものを簡単に読める状態にあるので、それからはずれた中世の神や仏のたぐいを、異端として見がちなのでしょうが、そうした感覚に安住してはいけないのでしょう。