時代小説はむずかしい

大波一郎さんの、『詩人 日柳燕石』(本の泉社)というのを読みました。江戸末期の詩人の伝記小説です。主人公の燕石は、讃州琴平の博徒の元締めであり、憂国攘夷の詩人でありという人物なので、戦時中に大都映画が題材にしたというらしいのです。
それを、大波さんは、憂国のなかにある、進歩を願う気持ちを軸にして書こうとしたようです。それはそれで納得はいくのですが、読んで少し考えたことを。
燕石さんの、尊皇攘夷という意識が、どうしてうまれて、それが19世紀の日本を改革するのに適切なのかが、作品だけではよくわからないという点があります。それは、時代小説のもつ特質ではないかと思います。
今の人々と彼らの意識は違います。たとえば、女性とのかかわりにおいて、それがあきらかになります。燕石さんは、生涯相当女性との関係では、けっこうすごいものがあったように、大波さんの本は書いています。でも、それがどうなのかは、当時の目でみればいいのか、それとも現代の認識をまぜればいいのかは問題になるでしょう。
そうした点が時代小説には問われます。攘夷の件にしても、それを現代の目から見て、その立場にたったうえで、作中人物の所業をよく考えるのは、結構難しい事だと思います。そうした認識が、必要なのかもしれません。

あと、燕石さんたちの漢詩を、大波さんは口語自由詩の訳し方をしています。それが妥当なのかは、問われなければなりません。それをいい加減にしては、作者の意図ともあわないでしょう。せめて、行数だけはそろえる必要があるのではないでしょうか。漢詩は、リズムを重視しますから、せめて行数はそろえないとよくないでしょう。