リアリズムのこと

なんか難しそうなタイトルですが、『百合子を読む会』というのが、若い人を中心に行われていて、そういう人たちとの交流もあるので、できるだけ参加させてもらっています。
今は、『十二年の手紙』(新日本文庫)を読んでいるのですが、毎回最初の1時間ほどを朗読にあてて、(参加者でかわりばんこに読みます)そのあとで、読んだ部分についての感想・意見の交流という形です。
土曜日に会があったのですが、1939年のあたりを読んでいると、百合子が科学的社会主義の古典の勉強をしていて、「経済学批判」の序説を読むのですね。そこには、マルクスが古典ギリシアの文学作品がなぜ感動を呼ぶのかについて考察しているところがあります。それを百合子は読みながら、当時の批評家たちが、「マルクスだってギリシアの芸術に感動してるのだから、文学は経済的土台とは関係ない」という議論にもちこんだことを批判しています。「おとなはこどもには戻れない」というところがポイントなのですよね。
それで思い出したのが、エンゲルスバルザックを「評価」したという例の手紙のことです。あれもプロレタリア文学運動の解体期に、〈作家の世界観など関係ない〉という主張のために引用されまくった感じがあります。
でも、あれは、同じ思想をもった仲間へあてた手紙でしょう。たとえば、〈三島由紀夫だって貴族の解体を描いている〉と仲間うちで言ったとしたら、それが三島を賞賛していることになるでしょうか。〈そういうのに負けるな〉という励ましかもしれないし、世界観がしっかりしていて、その上にリアルに描く技術をもったら鬼に金棒ということかもしれない。村上龍が書く北朝鮮の兵士の心情がリアルだとしても、それを「半島を出よ」を高く評価することに結びつけることはできませんよね。
そう考えると、我田引水することの恐ろしさということにもつながるのでしょう。
このへんを本気で展開すると、けっこうややこしそうです。