小春日和としての昭和17年

変なタイトルだと思う人もいらっしゃるでしょうが、『戦争の時代と社会』(青木書店)という論文集を読みました。日露戦争100年を期して、千葉大でおこなわれたシンポジウムをベースにしてできた本だそうです。
その中の、『総力戦下の都市「大衆」社会』という論文(高岡裕之)にある話なのですが、そこでとりあげられているのが、戦時下のツーリズムなのです。ツーリズムといえば、ナチスドイツの歓喜力行団(KdF)のことをご存知の方もいると思いますが、そういう形で、民衆に娯楽を与えるというのは、政策としてありえることでしょう。
まず、日中戦争時代には、山梨県が観光スポットとして脚光を浴びたことが書かれています。土曜の夜に夜行列車で出れば、観光して日曜の夜には東京に帰れるというのが、当時の山梨県のセールスポイントだったようです。(そういえば、太宰治の「富嶽百景」という作品には、作者がこもっている峠の茶屋にも女性二人の観光客が訪れたり、バスの車掌は観光ガイドをするというような場面がありますね)
それで、観光客のマナーの悪さが問題になるなど、そういうことはいつの世も変わらないのかもしれません。それが、1941年には、相当抑制される。文部省は修学旅行禁止令も出したということです。ところが、1942年には、逆に観光客が増加したというのです。夏の富士山には20万人、鎌倉や逗子の海岸にも8月最初の日曜日は20万人、伊東温泉は年間通じて46万人を超えて過去最高の数値を記録するし、10月の連休(神嘗祭とつづいたようです)には、日光は旅館が満員で、社寺境内で夜を明かした観光客もいたというほどだったというのです。(秋の日光は紅葉ですね)修学旅行も、伊勢と橿原神宮はよいということになったので、9月からは東京の国民学校が修学旅行を復活させたというのです。
それと関連するのかもしれませんが、夏の中等学校野球(甲子園)も、今の記録では、1941年から1945年まで中止・中断ということになっていますが、最近知られるようになってきた、1942年の文部省主催の甲子園大会が実施された(優勝は徳島商業)こともありますし、都市対抗野球も、1941年は中止になったけれど、1942年には再開され、「全京城」チームが優勝しました。
緒戦の勝利ムードはあったのかもしれませんが、そういうふうに、戦争の中でも、楽しみを求めて人びとは生きていたのだということを、忘れることはできないと思います。もちろんそれが、戦争の時代を肯定するようではいけないのですけれど。