「鎮守の杜」ふたたび

時評で書かなかったからといって、この作品を全否定しているわけではありません。ただし、やっぱり考えてしまうのです。
 日本の神様、特に氏神さまはたたりません。「たたる」場合には、相手が明確です。いい例が天神様で、宮中に落雷したときも、道真の生前に怨みを買うようなことをした人だけが被害にあっています。にもかかわらず、「たたる」という認識が人々の間にあるとしたら、それは興味本位のマスコミの影響か、淫祠邪教の代弁人の金もうけかの、どちらかでしょう。「鎮守の杜」で、総代(鉄蔵ですね)がその邪教の主に宮司を変えようという提案をします。それに対して、意見を言う人はわずかです。それが、鉄蔵が村の中でもつ力の反映なのか、鉄蔵とともにその女に「治療」をうけているという、利害関係をもっているかということなのだと作品から読むことができます。それを「信仰治療」と主人公(康雄)は考えます。これは「信仰」でしょうか。鉄蔵はそうかもしれませんが、他のひとたちはどうでしょう。康雄自身が神道についての知識をもっていないのはかまわないし、たぶん彼は国家神道への批判的な眼をもっている良心的な人だと思います。神社を地域のまとまりの中心になる存在と認めて、そうしたものとして理解しているように思えます。でも、鉄蔵の紹介での「治療」を「信仰」といったり、「豊かな社会の難民」とかたづけるような言い方は、どうでしょうか。そこに性急さを感じてしまうのです。
 作者がそれにへばりついてはいけません。女のやっていることは、神社の信仰とは縁もゆかりもないのですから、神社の立場から批判があってしかるべきなのです。それは、「首相の靖国参拝に賛成する」老人(作品では名前がありません)の口から出ていいはずのことばなのです。ところが、作者はその老人をもったいない使い方をしてしまいました。政治献金をやめるという提案の賛成発言を彼にさせてしまう。二宮雪子の神道の信仰に根づいた意見のあとで、その老人が何も言わなかったことが、鉄蔵の立場と関連した矛盾であるはずなのに、作者はそれを描かなかった。
 そうすると、政治献金のことをいれたことが、作品を逆に混濁させてしまったのではないかと考えられます。宮司交替の一つだけに議題をしぼるようにしたら、もう少し村の人たちにいろいろな役割をふることができたのではないでしょうか。
 問題提起の作品であることはまちがいないのですが、神社そのものの扱いに、どうしてもひっかかってしまうのです。