裏時評つづき

『民主文学』2月号の、柴垣文子の「鎮守の杜」。近畿地方の山間の村の神社に大阪で怪しげな祈祷をしている女性を宮司として迎え入れようとする神社の氏子代表の男をめぐる話です。主人公はその人物ではなく、氏子総代の会計をやっている教師を定年退職した男性。彼は、氏子の会合で、神社が出していた政治献金をやめさせようとするなど、進歩的な人物のように設定されてはいます。けれども、その淫祀邪教の女と、神社神道の「あるべき」姿との対比がうまくいっていません。国家神道にからめとられる前の、神社のありようというものへの作者の意識がよく見えないのです。近畿地方は、20世紀はじめ頃の南方熊楠が痛烈に批判した神社合祀運動によって、相当なダメージをうけているはずで、そうした攻撃と、国家神道によるしばりとが、神社の真の姿をみえにくくしているように思います。もちろん、記紀神話だけが神道の基盤だとは思いませんが、自分たちの神様の拠ってたつ根拠を、この神社の氏子の人たちはあまり考えられないように見えます。そこが、作者のもっている神社への批判の形象だというのなら、まだよいのですが。そこを忘れて「共同体」を語ってもね。