根が深い

中根千枝『未開の顔・文明の顔』(角川文庫、1972年、親本は1959年)です。

著者が1953年から1957年にかけて、インドからヨーロッパに行った時の記録です。ベンガル地方や、アッサムなどの地域の報告は、なかなか興味深いものもありますし、それこそインパール作戦で日本軍が侵攻したところにも行っているところもあるのですが、今回紹介するのは、ロンドンでの経験です。

イギリス人の〈ルールを守る〉ことへの徹底の例として、こんなことがあげられています。「どんなときでも、そのエスカレーターに、人々は左よりに一列に一糸乱れず乗っているのである。右側があいていて、急ぐ人はそこをかけ足で登って行く」(p173)

60年前の話です。さて、どんなものでしょうね。

泣ける話

漢文で、忠犬の話はいくつかあるのですが、そのなかで、犬が銀を守って死んでしまう話があります。けっこう泣ける要素があるかと思うので、原文と訳(試訳ですが)をあげておきましょう。

秦中有商於外者、帰挈一犬以行。抵黄河。行嚢在船、候人満乃渡。偶腹痛欲瀉。亟上岸、犬随往。有布袋裹銀五十両、解置地、戯向犬曰、看好。少頃、舟子以人満風順、連催登舟。帆已満張、一瞬而開矣。商入舟、方悔忘銀与犬。然日暮不能再渡。明晨縦往、安得前銀尚在。遂帰。明年、渡河復経前地、慨然曰、銀已無存、犬何帰乎。往尋、見犬皮覆地。検之、白骨一堆耳。商憫焉、掘地埋其骨、骨尽則前銀尚在。蓋犬守銀不離、甘餓死、覆尸銀上耳。商泣瘞之、為立塚。

秦の地から外に出て商売をする人がいた。秦に帰ろうとして、一匹の犬を連れて移動していた。黄河に着き、荷物は船に置いて、乗客が増えて出航するのを待っていた。たまたま腹痛で便意を感じた。すぐに上陸すると、犬もついてきた。布袋に銀五十両を入れておいたのを、地面に置き、気軽に犬に言った。〈番をしておいてね〉しばらくすると船頭が、お客さんもいっぱいになったし風向きもよいので船に乗るように呼びかけていた。帆も風をはらみ、すぐに出航しそうになった。商人はあわてて乗船して、そのあとで銀と犬とを置いてきたことを悔やんだ。しかしもう日暮れで再び渡ることもできない。明朝行ったとしてもどうして銀が残っているという保障があるだろうか、あるわけがない、と考えてそのまま帰ってしまった。翌年、黄河を渡り再びこの地を訪れると、ため息をついて言った。「銀はもうなくなっているだろうし、犬は誰に飼われているだろう」行ってみると、犬の毛皮が地面に広がっているのが見えた。調べると、白骨が山のようになっていた。商人は悲しくなり、地面を掘って骨を埋めてやろうとすると、骨の下には銀がそのまま残っていた。思うに、犬は銀を守って離れず、餓死してまで銀の上に乗って守っていたにちがいない。商人は泣きながら骨を埋め、犬のために立派な墓をつくった。

 黄河の幅と流れを考えると、こういうこともあったのでしょうね。

空気のゆくえ

海野弘『風俗の神話学』(思潮社、1983年)です。

1980年代初めに書かれた、都市論に近い文章をあつめたもので、ある意味時代の先端を突っ走っているようなところもあるし、その後のポストモダンやら、1920年代ブームやらを予感させるようなものもあって、その後の道行きを知っていると、なにやら懐かしく思えてきます。そういえば、あのころ槇村さとるは「N・Yバード」を、くらもちふさこは「東京のカサノバ」をと、都市にこだわったような作品を出していたと、こじつけめいたものまで連想してしまいました。

なまなましい

美濃部亮吉『苦悶するデモクラシー』(角川文庫、1973年)です。

1958年~59年にかけて雑誌に連載したものだそうですが、戦前の大学人にたいしての言論の圧迫の実態を回想しています。著者自身も、いわゆる〈教授グループ〉への弾圧のために、治安維持法違反のかどで検挙された経験をもつので、証人としても意味のあるものになっています。

研究そのものを弾圧するということだけでなく、当時の知的共同体そのものを破壊するところまできていたかと思うと、決して80年前のこととはいいきれないものを読み取ってしまいます。

最終章は、1932年~34年にかけて著者がドイツに留学していたときのことを書いていて、NSDAPが政権をとって独裁体制をつくりあげていくところを実際に目の前で見ていたということも、考えさせるものがあります。

こういう本こそ、再刊されてしかるべきかと。

手抜き

窪川鶴次郎『東京の散歩道』(講談社文芸文庫)を見ていたら、いつも巻末にある、単行本や文庫本のリストが存在しません。窪川の文庫本が出るのはほんとうにひさしぶりだというのに、こういう扱いを受けるというのは、釈然としないものがあります。