備忘のために

ずっとむかし、古田武彦の『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1973年)を読みました。そのなかに、「『隋書』(『北史』もですが)のなかに、〈倭国は東西五月行、南北三月行〉という趣旨の記述があり、(古田は隋書は倭国ではなくタイ国だといっていますが、ここでは面倒くさいので倭国と書きます)それは九州島を中心においたきじゅつなのだ」という趣旨のことがかいてあったのを覚えています。
この記述は、実はその後の日本人が、日本の境界を、〈東は外ヶ浜、西は値嘉島、北は佐渡、南は土佐〉と考えているのと符合するのではないかと思うのです。現に、土佐は南海道で、肥前西海道ですし、佐渡北陸道で、陸奥東山道です。それぞれの方角がきちんと含まれています。
メモ代わりですが。