しかけのしかけ

辻原登さんに、「枯葉の中の青い炎」という作品があります。集英社の『コレクション戦争と文学 帝国日本と台湾・南方』(2012年)に収録されています。
1955年9月4日、京都西京極球場で行なわれたプロ野球パ・リーグ大映スターズトンボユニオンズの試合を背景に、ヴィクトル・スタルヒンという白系ロシア人と、相沢進というトラック諸島出身の両選手の行動を軸にして、日本という国のありようを考えさせる作品です。
初出誌で読んで以来、久しぶりに読み直してみたのですが、初出で読んだときから、ちょっと確認がとれなかったことがあったのです。それがはっきりしたので、書きつけておきます。
作品は、この日、スタルヒンが日本プロ野球史上初の、通算300勝をかけて登板し、ピンチを迎えながらも300勝を達成するなかに、相沢の隠れた「功績」があったことを述べます。そこに、作者のたくらみもあるのですが、実は最大のたくらみが、〈スタルヒンの300勝達成はこの日ではなかった〉ことなのです。というのは、1955年当時パ・リーグの記録部は、戦前からの記録を再検討していたのですが、どうみても勝利投手の決定(公式記録員が決めて、報道関係に伝達するのが、今も昔も変わらぬルールなのです)がおかしい試合があるということで、スタルヒンの勝ち星を2勝少なく認定していたのです。そのことの最終的な決着は1961年についたので、もちろん当時はだれもがこの日にスタルヒンが300勝を達成したと思っていたのです。現在では1955年7月28日の川崎球場での勝利が、スタルヒンの300勝達成日として記録されているのです。
作品の現在は、2004年に〈語り手〉が当時のことを語るという構成になっています。この〈語り手〉は、10歳だった1956年に、相沢選手を和歌山県の球場でみたと、作者を思わせるような〈語り手〉です。これもたくらみなのでしょうが、そうした〈語り手〉ならば、スタルヒンの300勝がずれたことは知っているはずです。作者は、あえてそこに触れないという形で、作品をしかけました。相沢が当時、300勝達成のためにした「功績」は、実は何の意味もないものだったということになるのですから、悲劇性がますます深まるわけです。

この作品は、文庫本にもなっているそうですが、このことに触れた解説とかはあるのでしょうか。別に自分が発見したというつもりではないのですけれど。