終局

ドラマ「坂の上の雲」完結です。
3年にわたって放映されてきて、秋山好古の死で終わりました。こうした、あまりに有名な作品をドラマ化することは、その内容以前に、原作からの距離の問題も、話を複雑にしているように思います。
渡辺謙によるナレーションには、しばしば原作の文言が使われます。というより、司馬遼太郎の〈肉声〉を演じているかのような感さえ抱かせます。メッケル参謀を招聘したときのモーゼルワインの逸話だとか、ほかにもいろいろとあるでしょう。けれども、すでにいろいろなところで指摘されているように、原作が書かれた1960年代後半期の歴史認識は、すでに古くなっている面が多くあります。2010年代に放送するとき、そこをどう処理すべきかは、当然問題になるでしょう。第1部の最後のほうに少し触れられた明成皇后殺害事件のように、原作にないものを補うことが、もう少し行われるべきだったのではないかとも思うのです。
けれども、それが逆の目に出たようにみえるのが、最終回での漱石の登場のしかたです。
ドラマでは、『ホトトギス』に載せる「吾輩は猫である」の原稿をもって、漱石が子規の家でおこなわれている編集会議に顔を出すという設定になっています。そして、「猫」の中で登場人物が書いたという設定の〈大和魂〉に関する文章を唱え、子規の妹から批判される流れになります。
この場でも、前から漱石をどう登場させるかがカギだと言ってきましたが、こうした扱いでは結果的に、漱石の中にある時流への批判的な精神(のちに「現代日本の開化」で展開されていくようなもの)が、周囲に理解されないままに終わってしまうという形での登場となりました。そこに、無理があるようにも思えます(まさか、子規の周囲の人たちさえも漱石の真意を理解できなかったということを読み取らせるという意図とは思えません)。
せめて、もう少し、当時のメディアが、少しも冷静に戦争をふりかえる検証をしなかったことを司馬遼太郎が批判しているところをあげる(小村寿太郎にもう少し活躍させる)とかして、秋山兄弟が軍での栄達を望まなかったことの意味を掘り下げる方向も可能だったのではないかとも思います。

当時の戦艦「三笠」は、戦争終結のころ、佐世保で爆発事故を起こして沈没します。のちに引きあげられ、修復されて今は横須賀にあって、当時の状況に復元され、博物館のようになっています。何年か前に訪れたとき、艦がけっこう小さいことに気づきました。その小さなふねに、あれだけの破壊力をもつ大砲を搭載していたのです。それも、近代の象徴なのでしょう。