口実

大江健三郎さんの『燃えあがる緑の木』(全3冊、新潮文庫、1998年、親本は1993年から1995年にかけて)です。
愛媛のいつもの大江さんの世界に、新しく〈教会〉ができて、それが崩れていく過程を描いた作品なのですが、その〈教会〉に、外部からの干渉がはいるのは、原子力発電所がからんでからのことと設定されています。それまでは、〈教会〉の主宰者が、もと過激派の人間であっても、とくに問題は起きなかった(悪意をもって報道するジャーナリストは出てきますが)のですが、メンバーが根拠地の森をでて、海岸の原発まで行進するというところから、話がきなくさくなります。
もちろん、作品の中のことですから、実際にそういうことがどの程度可能なのかはともかくとして、原発をめぐるいろいろな不透明な現実が、作者にこうした設定を考えさせたことはありそうなことです。
本来、人を殺すために開発された核兵器と、生活を豊かにするという主観的な善意を持つはずの原子力発電とは、〈反対〉の性質が違うはずです。21世紀の人間には原子力をまだ完全にコントロールするだけの力がないというところに、ことの問題はあるわけです。ですから、同じ原理を使っているからといって、核兵器原子力発電とを単純に同一視はできない。そこはおさえておきましょう。
そういえば、小林信彦さんの『極東セレナーデ』(全2冊、朝日新聞社、1987年)も、〈日本の原子力発電は安全だ〉というキャンペーンに、アイドル女優を起用しようとするたくらみが描かれていました。
1980年あたりの日本の電力消費量が、いま仮に、日本の原子力発電がすべて停止したときの発電量とおなじぐらいだったと記憶しています。そのかわり、石油の消費がどうなるという問題ですから、ことはややこしい。多面的に考えなくてはいけませんね。