壁にむかう

村上春樹さんの演説が、『週刊朝日』3月6日号に、原賀真紀子さんの訳で載っています。
これに関しては、斎藤美奈子さんが、2月25日の『朝日新聞』の文芸時評で言及していますが、「総論というのはなべてかっこいい」という言い方をしています。こういうときに「壁」の側にたつという人はいるのか、政治家さえも「卵」の側というのではないかということですね。
実際には、『壁』を選ぶ政治家の人もいるのではないかとも思います。「卵」であっても、「壁」にぶつかるのは『自己責任』である、ぶつからないようにすればいい、という人は、きっといるでしょう。

ところで、この村上さんの話題を聞いて、最初に思ったのは、宮本百合子の「列のこころ」というエッセイのことです。これは、1940年10月号の『大陸』という雑誌に掲載され、1941年7月刊行の単行本に収録され、現在では『宮本百合子全集』第15巻(新日本出版社、2001年)に収められています。
このエッセイで、当時の「列」をつくる風潮を紹介しながら、百合子は、「列は整頓の形でありながら、常にその奥に何か足りないもののあることを語っているのはまことに意味ふかいことではないだろうか」と書き、列をつくる人びとの心は、動的なものだと述べます。
そして、「やがて自分たちで列をつくるようになり、追々自分たちの生活の実際の向上のために列を組むように成長してゆく過程は、実に多岐であり波瀾重畳であると思う」と、余儀なくされる列から、たたかいの手段としての「列」へすすむことへの期待を語るのです。「壁」に立ち向かう列を、「卵」から孵化して、自分たちで手をつなぐことをおぼえた存在が作っていく姿を想像すると、おもしろいものがあるのではないでしょうか。「年越し派遣村」にも列はできていたでしょう。その列が、形を変えてあらわれる、そうしたことも考えたくなります。そのためには、「卵」を無精卵にとどめておこうとするものにも、立ち向かわなければならないのでしょう。