節目

田村大五さんが亡くなられた。
といっても、ご存じない方も多いでしょうが、長年ベースボールマガジン社の要職をつとめられた方で、1950年代以来のプロ野球記者であった方です。「大道文」の筆名での著作も多く、『プロ野球人国記』(前後3回出版されています)などもあります。
その、1985年ごろ、2回目の「プロ野球人国記」を『週刊ベースボール』に連載していたときに、一度問い合わせの手紙を送ったら、「大道文」の署名で、ていねいなお手紙をいただいたことがありました。それは、「外地」の項目をたててはいかがかというという質問だったのです。
戦前の日本は、植民地に住む日本人の子どもたちを主として対象とした学校を建てています。(現地の子どもでも、例外的に通学できる子もいたようですが)中等学校の中には、野球部をつくり、甲子園に出場した学校もあります。というか、「台湾代表」「朝鮮代表」「満洲代表」と、3つの地区があったのです。そうした学校を卒業後、プロ野球の世界にはいった選手もいます。戦後初期、プロ野球人気に貢献した大下弘選手は、台湾の高雄商業から明治大学に進学し、戦後プロ野球で活躍しました。そうした選手を集めて、ひとまとまりの記述をしたらどうでしょうかという手紙を書いたのです。
田村さんのお返事は、ていねいなものでした。こちらの年齢がわからなかったのでしょうか、遠慮がちな文面で、かえってこちらが恐縮するようなものでした。内容は、そうした選手たちも、「内地」に本拠があったはずだから、そこをベースにした記述にしたいのだというものでした。大下選手は神戸で、台北工業出の関口清治選手は福井県の武生で、平壌工業の渡辺省三選手は愛媛の西条で、というようにです。

田村さんの最後の仕事は、三原−水原対決を書いた、『昭和の魔術師』(ベースボールマガジン社新書)でした。西鉄ライオンズの系譜を、西武ライオンズが引き継ぐことがはっきりしたあとだというのも、ひとつの区切りとなったのかもしれません。