決定打

『往復書簡 宮本百合子湯浅芳子』のつづきです。
二人が決裂したときに、宮本顕治湯浅芳子の留守中に泊めたことが発覚するのですが、そのとき、芳子の手記によれば、百合子は「同志」だからということを最初の言いわけにしたようです。百合子は芳子に対して、「2回」すすめたのに断ったので、立場が違うのだといったようです。
その「お泊まり」が「同志」ということだけでなく、性愛がからんでいったのが、最終的な破綻につながるのですが、ここで注目しておきたいことは、この表現からして、百合子が1932年1月の段階で、日本共産党に入党していたことがまず確実に推測できることです。
というのも、昔、中村智子さんが、筑摩書房から出した『宮本百合子』(1973年)という本の中で、百合子の戦前入党の事実はないという主張をして、中野重治と「論争」をしたことがあったからです。中野の文章は、『緊急順不同』(三一書房、1977年)に収録されましたが、中村さんは、1981年に『宮本百合子』の重版をだしたときに、その論争などのことを追補しましたが、はっきりと論破されたとは認めていないようで、その後も似たような発言をしていたようです。
百合子の自筆年譜に、1931年の項目に「党の組織と結合した」と百合子自筆で追加されたのも、写真版が今は公開されている(新日本出版社の『百合子 輝いて』(1999年)のP26にあります)のですが、そこにも、話をややこしくしたいきさつがあったのかもしれません。
というのも、その「自筆年譜」の原形は、臼井吉見編集で出された『宮本百合子研究』(今は復刻版が日本図書センターから1990年に出ています。これは写真に撮って復刻したものです)にあるのですが、そこには、戦後のところに「入党した」という趣旨の記述があって、そこに中村さんはとびついたようなのです。
まあ、今回の湯浅芳子の手記で、もう議論にはならないでしょう。ただ、だれかがきちんと「研究論文」にしないといけないのなら、もう一つ展開が必要かもしれません。