今の立ち位置は

また箸休め的なものですが、『文藝』冬号の綿矢りさ「夢を与える」です。
フランス人の父と日本人の母をもつ、夕子さんが、幼稚園のころにチーズ会社のコマーシャルに出演することになります。会社側としては、ひとりの少女の成長を追うことで、チーズが長く愛される商品であることを示そうとする意図があって、夕子さんに注目したのです。夕子さんは毎年、広告のモデルとして活躍します。中学時代には、事務所にも所属して、いろいろな仕事をするようになります。高校進学と同時に人気がブレイクして、売れっ子になるのです。
ところが、そういう中で、夕子さんは恋をします。相手はあまりメジャーではないダンスグループの、少し年上の男性です。画面の中では清純さを演じている夕子さんに、男ができてはまずいと、関係者はそれを隠す方向で動いたり、二人に別れないかという説得もするのですが、夕子さんは認めません。
しかし浪人生活を送っているあるひ、夕子さんの彼氏との性行為の映像がネットで配信されます。それは、夕子さんの彼氏の友人が撮った映像だったのです。夕子さんには仕事もなくなり、彼も訪ねてこなくなります。

という話なのですが、正直いって、どうでしょう。「インストール」や「蹴りたい背中」にあった、登場人物を、少しひいて客観的にとらえる視点が弱くなっているように感じます。自分が虚像として夢を与える存在であるという自覚と、彼氏にのめりこむ部分と、そこにある段差についての作者の分析が弱いのです。もちろん、夕子さんをオトナの女性に脱皮させるように誘導していかなかった周囲への批判の目はないわけではありません。彼氏との関係を報告できた数少ない相手のスタイリストさんを生かしきれなかったことも、大きなポイントだったのかもしれません。

夕子さんに作者の実人生が投影されているとしたら、またそれは別の問題を起こすのかもしれませんが、そうした危うさを感じさせます。次にどういうものを書くかで、この人の小説家としての位置が決まるような気がします。