熱狂のこわさ

長い作品を読んでいました。ドライサーの『アメリカの悲劇』(大久保康雄訳、新潮文庫、1978年)です。上下巻で合計1300ページくらいです。
工場に勤めるクライドという若者が、恋仲になって、自分の子をみごもった女性を亡き者にしようとして、湖に出かけるのですが、ボートがたまたまひっくり返ったとき、彼は彼女を助けようとはせずに見殺しにしたのです。それは、クライドがたまたま社交界に出入りする中でしりあった別の女性にひかれていて、その女性との関係を進展させるには、最初の彼女は邪魔だと考えていたからなのです。
それだけでも、じゅうぶん作品になるのですが、作者は、クライドが裁判にかけられて、死刑の判決をうけて、刑が執行されるまでを、全体の3分の1くらいを使って書いています。その裁判は、検事が自分の出世のためにこの事件を使おうとして、陪審や世論を味方につけようと画策する場面が多く出てくるのです。
作者は、そうした世論に動かされる裁判の姿を書くことで、誘導される世間のこわさを描こうとしたようです。それは、リンチもおこなわれていたアメリカ社会の暗部のある反映なのかもしれません。
十二人の怒れる男たち』のような、陪審制度の危うさも、この作品から読み取れるとすると、タイトルのなかの「悲劇」ということばのもつ意味も考える必要があるのでしょう。