熊の子

馬場孤蝶(1869-1940)『明治文壇の人々』(ウェッジ文庫、2009年、親本は1942年)です。
島崎藤村たちと『文学界』に拠り、樋口一葉とも親しかった馬場の回想記を集めたものです。多少の誤字などがあるのもある程度はご愛嬌かもしれません。
一葉のほかに馬場が親しかったのは斎藤緑雨だったのです。緑雨はするどい批評家でもあったのですが、その本質は、連想のおもしろさにあったのではないかとも思えるエピソードが、この本に紹介されています(緑雨自身が書いていることですが)。
或る日、孤蝶が藤村、秋骨、緑雨とともに秋骨の下宿にいったとき、孤蝶が厚い毛の洋服を着ていたら、秋骨がそれをなでながら、〈こうやっていればかわいいね〉と言ったのだそうです。孤蝶が〈おれは熊の子か〉といささかむくれ気味に返すと、緑雨がすかさず〈猪の弟じゃないか〉と言ったのだそうです。
孤蝶の兄は馬場辰猪という当時の論客だと知っていればこその受け答えなのですが、それを知らずにここを読めば、なんだろうと思うにちがいありません。緑雨の批評には、そういう、〈知っていないとわからない〉的なものがあるように思えます。
ちなみに、緑雨という号のヒントを彼に与えたのは、『汗血千里の駒』で坂本龍馬を小説にした、坂崎紫瀾なのだそうです。
緑雨の全集は1990年代に筑摩書房から出ていました。それはそれでおもしろいものですが、もう手に入らないでしょうね。