個別と普遍

フェリーチェというイタリアの学者の方の、『ファシズム論』(藤沢道朗、本川誠二訳、平凡社、1973年、原著は1970年第4版)です。
もともとファシズムということばは、イタリアの党派からきているわけで、それをどのようにほかの政治状況を説明していくのに使えるかというのは、問題になるべきことかもしれません。この著者は、戦前の日本はファシズムとはいえないという立場に立っています。
諸家の理論を検討している部分が長くて、詠みづらいのですが、当時のイタリアの状態とむすびついた、いわゆる中間層の運動が出発点であるという、著者の位置づけはなんとなくわからないでもないという感じがしました。
資本家というほど「資産」があるわけでもなく、かといって「労働者」と自己規定するほどの割り切りもない、という人たちがもつ、自己意識という問題は、今の日本でも考えていかなければならない問題だと思います。その点で、戦間期のヨーロッパのありようは、いろいろと参考にしていくことができるのでしょう。単純に、あてはめるとおかしくなることもあるのでしょうが、第一次世界大戦が、「勝ち」と「負け」とを徹底させずに終わっていたことが、その後の展開と関係したわけですから、(もちろん第二次大戦のような終わり方がいいのかというのは別問題ですが)そのあたりの、人びとの意識の問題を考えるべきなのでしょう。