疲弊

九州場所の映像をみると、桟敷席がガラガラで、いったいどうしたのかと思うようです。福岡の本場所は1957年からで、名古屋場所よりも早かったのですが、それには、当時の九州地方がもっていた〈元気さ〉が大きな要因であったのでしょう。西鉄ライオンズの強かったのも、その時期ですから。
というのも、『民友社文学の研究』(三一書房、1985年)のなかで、徳富蘇峰について書かれたものにあったのですが、蘇峰は、1890年代の日本を、『田舎紳士』が各地でリーダーシップをとって、日本全体を進歩させるという認識をもっていたのだというのです。それぞれの地域で、個人の利益を追求するのではなく、地域全体の振興をめざす名家があってこその日本だと考えていたのでしょう。
もちろん、自由民権運動が中途半端に流れ、地方の豪農層が〈松方デフレ政策〉で解体していくという日本の資本主義の発展の中では、蘇峰の描いたビジョンは実現困難になっていき、蘇峰自身も考え方をかえてゆくわけです。
そして、文化は、東京一極集中の方向へと流れていくのです。
モンゴルやブルガリアグルジアエストニアと、外国から日本をめざすチカラビトたちも、その流れの上にいるのかもしれません。そうなれば、地方場所のもつ意味も、少しずつ変わっていくのでしょうか。