たとえばなし

小熊英二さんの『単一民族神話の起源』(新曜社、1995年)です。
明治からの日本人論をあとづけ、朝鮮・台湾を含みこんだ多民族国家であった大日本帝国の言説をとらえています。田口卯吉の変化の無残なところとか、柳田国男の位置づけとか、いろいろと知るところも多いのですが、筆者が日本の家族制度をとらえ、朝鮮や中国の父系制度家族とのちがいを述べているところが印象に残りました。
日本の家族は、養子という概念で、苗字を変えて、その家に同化していく。だれでも受け入れるけれども、決して家の中の秩序は変更しない。というのです。これが、日本統治下の朝鮮の状況を説明するのに有効だというのです。
ここを読んだときに、連想がはたらいたのが、相撲部屋の組織なのです。入門した新弟子は、雑居生活をします。それはどんな弟子も同じで、ハワイ出身の高見山も、モンゴル出身の旭天鵬も、例外ではありません。そして、相撲協会の秩序に従うかぎり、実力のみで出世が可能です。そこでは、血縁は関係ありません。若貴きょうだいは強かったから上に上がれたので、そうでなければ、横綱のこどもでも、十両にもあがれず廃業した人も珍しくありません。
しかし、協会に残っていくときには、日本国籍を取得しなければなりません。高見山も、旭天鵬も、日本国籍を取得して、協会に残って部屋を経営するのです(旭天鵬はまだ現役ですが、大島部屋を継ぐ方向で進んでいると聞いています)
そう考えると、相撲が日本の国技といわれるのも、道理なのかなとも思います。