太平記には月も見ず

『サガのこころ』(平凡社、菅原邦城訳、1990年、原著は1971年)がきっかけです。ロシアの北欧文学研究者のステブリン=カメンスキイという人の著作だそうです。
娘がアイスランドに興味をもっていて、その関係でいろいろと本や地図を探してやっていたのですが、(アイスランドの地図は、日本語版がなくて、英語版のおおきな壁に貼るようなものしかないのですね)その中でみつけたものです。
アイスランドのサガが歴史的な事実なのか物語なのかという議論がその中で展開されているのですが、その直前に『往生伝 法華験記』(日本思想大系、岩波書店、1974年)を読んでいたもので、日本における説話集と歴史との関係のほうに意識が流れていきました。
ずっと昔、アウエルバッハの『ミメーシス』(篠田・川村訳、筑摩叢書)を仲間うちの読書会で読んだときに、中世の物語を歴史として認めるかどうかという議論がそこでもされていて、日本ではどうなのかという話になったことがあります。
太平記』を史料として扱うかのかどうか、『今昔』や『古事談』はどうかという話になるわけです。実際、ひとつの核になる事実のまわりに、さまざまな枝葉がついていくのは、日本の物語の特徴で(加藤周一さんも、『日本文学史序説』のなかでそういう指摘をしていたと思いますが)それが漢文による記述になると「往生伝」の方向に行き、和文で記述されると今昔や古事談のほうに向かっていくというなるようです。『大鏡』などの物語も含めて、事実とその周囲にふくらむ虚構との関係については、今のいわゆる「私小説」の問題も加えて、検討していくことが大切なのかもしれません。
タイトルにした句は其角でしたっけね。記憶があいまいなのですが。