外と内

温又柔さんの『来福の家』(白水Uブックス、2016年、親本は2011年)です。
温さんは台湾出身なのですが、おさないころに、両親の仕事の都合で日本に住むようになり、日本語の世界のなかで生きてきた方です。カズオ・イシグロの逆のような感じですね。
この作品は、作者姉妹の境遇と似たような場を設定して、日本語と台湾語、中国語との関係を考えていくようなものになっています。日本語の世界が、和人のものだけではない、ということも当然ながら考えさせられます。

重複

岩波文庫から大岡信の『日本の詩歌』が出たのですが、岩波現代文庫で出たものに、池澤夏樹の解説を付加したものです。すでに、それを持っていたことをすっかり忘れて、だぶって買ってしまいました。こういうこともあるのですね。解説料として700円払ったようなものです。

議論のはて

石川啄木『雲は天才である』(角川文庫、1969年)です。
表題作ほか計4作品を載せているのですが、啄木自身が生活者としてやはり何か欠けている点があるのか、登場人物たちもいろいろと議論をしてはいるのですが、どうしてもそこに血が通っていないようにみえます。小説の書き手としての啄木は、作品を熟したものにするには時間が足りなかったのでしょう。
それにしても、当時のバイロン熱のようなものとはいったい何だったのでしょうか。ギリシアの独立にはせ参じたことが評価されるのだとしたら、当時の日本にとっての〈オスマン帝国〉とはいったいどこだったのか、考えてしまいます。

未練

希望の党から立候補するための誓約書みたいなものが、報道の画面に出てくるのですが、そのなかに、「外国人の地方参政権の付与に反対」という趣旨の文言があります。
代表の方が、関東大震災のときの朝鮮人虐殺があったと認めないかたですから、当然といえばいえるのでしょうが、なぜこうした問題が議論になるのかといえば、戦前の日本が植民地帝国で、和人でない人たちがたくさん住んでいたからでしょう。希望の党の人たちは、きっとその時代にもどしたいのでしょう。

吟味すれば

選挙になると、「しがらみのない」というフレーズが人気のようですが、投票してくれた人を「しがらみ」と思うということは、「自分は好き勝手にやりたい。投票してくれた人の気持など考えるつもりはない」という意思表示になると思うのですが、それでもそういう人に支持が集まるというのは、「私は自分の意見を聞いてくれるつもりのない人にお任せします」と考える人が多いということなのでしょうか。

広がり

『江戸詩人選集』(全10冊、岩波書店、1990年〜1993年)です。
共通一次試験の第1回は1979年だったのですが、そのときの漢文の出題は、菅茶山に関する文章でした。富士川英郎
『江戸後期の詩人たち』(近年平凡社東洋文庫にはいったとか)に引用されていた文章だったのですが、出題者もあえて読まれないものを選んだつもりだったのでしょう。2017年のセンター試験でも日本漢文が出題されましたが、その約40年の間の、ちょうど中間くらいが、このシリーズになるのでしょうか。富士川中村真一郎の『頼山陽とその時代』(最近ちくま学芸文庫におさめられたとか)をきっかけとしての江戸漢学への注目のなかで企画されたシリーズだといっていいのでしょう。こうしたシリーズによって、18世紀から19世紀にかけての日本(本土です)の文学の多面性がみえてきたのは、時間の重みでもあるのでしょうね。

あっという間に

岩波書店の新刊案内に、オンデマンド出版の告知があります。9月にあるのが、『加藤周一自選集』の中から何冊かが選ばれています。
まだ、刊行されてから10年もたっていないのですし、ふつうに書店でも在庫があるのではないかと思うのですが、もう、通常の形では出版しないということなのでしょう。
いくらはやりすたりがあるとはいえ、これはどうかと思ってしまいました。